「―――」 手すりにもたれ、じっと街を見つめている背中に。 そっと呼びかける。 すると、その背中が一度ぴくりと震えて。 「蓮…」 嗚呼、どうしてこんなにも久しぶりに感じるのだろう。 自分が彼女を見つめたこと。 彼女が自分を見つめること。 やっとまともに視線が合った気がする。 「寒くないか」 つとめて穏やかに声を出す。 は戸惑いながらも、ふるふると首を振った。 「そうか」 蓮はゆっくりとに近付いた。 真正面まで来たところで、改めて名を呼ぶ。 「」 すると何故かはびくっと肩を震わせて、俯いた。 まるで幼い子供が――親の叱責を覚悟するように。 いつの間にかその小さな両手は、握り締められていて。 正面で見ると、頬のガーゼが更に痛々しい。 気を失った彼女を抱えたのは自分だった。 確かに大怪我とはいえないまでも―――顔を傷つけさせてしまったことに、胸が痛んだ。 蓮は、知っている。 態度とは裏腹にリゼルグを気にかけ、一番最初にあの場へ乗り込んだのも自分なのだから。 がリゼルグを庇おうとしたことも。 その時に―――彼女が言っていた言葉も。 「ほっとけないの」 「にてるの。あのひとに」 「いつも傍にいてくれたひと。大切な、大切なひと」 噛み締めるように、まるで自分自身でも確認するように、彼女は言った。 その顔に迷いはなく。 ただ、穏やかに微笑んでいた。 そんな彼女を見て―― 決心したのだ。 何がどうして、すれ違ってしまったのかはわからない。 だけど、だけど。 このままではいけないと。 だからせめて、話をすれば、何かが掴めるかもしれないと、思った。 ……結局葉の言ったとおりになった。 「………」 相変わらず、は俯いてじっと黙っている。 いつの間にか握り締められた拳が、小さく震えていた。 蓮は、知らずにふっと笑みを浮かべた。 そして、そっと手を伸ばし――― がびくっと驚いたように顔を上げた。 その目は一杯に見開かれて、蓮を凝視する。 余りの驚きに、言葉も出ないらしい。 「……ばかものが」 蓮がそう、呟いた。 その手はの頬に触れたまま。 ガーゼの部分を、優しく撫でる。 痛みを感じさせないように、そっと、そっと。 まったく、無茶しおって… いつの間にこんな無理をする人間になったのだろう、彼女は。 たどたどしくて、誰かの手を借りねばならない幼子のようにずっと思っていた。 でも。 今回の、彼女は。 「大切な、大切なひと―――」 耳の奥で彼女の声がこだまする。 嗚呼、何故だろう。 あんなにも見えない心に、わからないすれ違いに、苛ついて、戸惑っていたのに。 あの一言を聞いた瞬間、胸に湧き上がったのは―― 「ごめんなさいっ!」 不意に響いた声に、ぴたりと蓮は動きを止めた。 蓮の驚いた視線の先で、が今にも泣き出しそうな顔で此方を見つめていた。 「蓮のこと……無視してごめんなさい!」 余りに予想外の言葉に、予期せぬ行動に―――蓮はただ、固まった。 どういうことなのだろう。 何故謝る? いや、彼女は無視したことについて、自覚している。 ソレに対して謝っているのだ。今言っていたではないか。 そういうことではない。 そういうことでは、ないのだ。 ただ―― まさか開口一番こう来るとは、流石に思わなかった。 そんな蓮をよそに、は続ける。 素直に打ち明けようと、思っていたことを。 「あ、あのね……わたし、ほんとは、すっごく嫌だったの…。蓮が……たくさんの女の人と、仲良くしてるの、見て」 「は?」 蓮は目を丸くする。 何のことだ――? が何のことについて言っているのか、わからなくて。 訝しげに彼女を見るも、自身は気まずそうに地面を見つめている。 だが次の彼女の言葉で、納得した。 「喫茶店で……蓮、真っ赤になってた、…」 (ああ…) やっと合点がいく。 そうだ、そういえばリオの態度がおかしくなったのは…あのあとからだった。 ―――ん? (まさか…) かあっと蓮の顔が真っ赤になった。 無意識に手を自分の頬に伸ばす。 そこは、勿論今はとっくに消えてなくなっているが――キスマークがあった場所。 これも…彼女が無視する行動に出た原因のひとつ? (……最悪だ) そう思いながら、ふと疑問に思った。 何故、最悪だと思うのか。 何故―――罪悪感が沸くのか。 「蓮が……他の女の人と一緒にいるの、見て…もやもや、した、の」 言いにくそうにが言った。 そして、 「ごめんなさい…」 そうまた言って、しゅんと項垂れる。 ―――――― お互いに何も言わない時間が流れていく。 蓮はただの震える肩を見つめて。 はただ、次の蓮の言葉を覚悟して。 (きらわれた、よね……) そう思った。 でもそれでも仕方ないと思った。 自分が彼にやったことは――お世辞にもいいとは言えないことなのだから。 勝手な行動で、彼を傷つけてしまったことには、変わりないのだから。 だから―― 「…!」 不意に頭を撫でる感触に、は本気でびっくりした。 恐る恐る顔を上げると、そこには仄かに頬を赤く染めた、彼の顔。 何故か彼も、どこか気まずげに目をそらしていて。 「蓮……? わ」 突然目の前が真っ暗になった。 慌ててはその正体を確かめようと手を伸ばし―――それが意外にも、蓮の掌だと言うことに気付く。 「れ、ん…?」 「黙ってそのまま、聞け」 何も見えない視界の中、ただ彼の低い声だけがしんと響いた。 気圧されて、言われた通りは口を閉じる。 そして、彼の言葉を待つ。 「―――俺も、同じだった」 蓮は紡ぐ。 彼女がしてくれたように……自分の心を、伝えようと。 精一杯の言葉で。 『好きなんだろ? のこと』 葉の言葉がよみがえる。 すき、という気持ちは。 正直なところ、それが一体どんなものなのかまだわかっていなくて。 どういう気持ちのことを言うのか……わからなくて。 だから今はまだ、はっきりとした答えを出せない。 中途半端な気持ちを口には出したくない。 でも――ひとつだけ、はっきりとわかることがあった。 蓮は自分の心が、ゆっくりと静かになっていくのを感じていた。 今のこの空気のように、穏やかで、静謐な。 「俺も―――お前が他の男と…葉やホロホロ達と話しているのを見ると、たぶんお前と同じ気持ちになっていたんだ」 思い出した。 日本で、予選通過の宴会をしているとき… 自分も同じ気持ちを抱いたのでは、なかったか? ただもやもやして。 ただ苛々して。 そう白状するならば―――昼間、リゼルグに庇われていた彼女を見たときすら。 胸が疼いたのは、どうしようもない事実。 あれと同じ気持ちを、彼女は味わっていたのか。 冷え冷えとした空気のせいだろうか。 それとも昼間の疲れがまだ残っているのだろうか。 意外にも、するりと言葉が滑り出てくる。 ただ淡々と。 この感覚を、知っている。 そうだ。 一次予選の最終試合をした時―― 麻倉葉と戦って、戦って、己の全てを出し切って戦ったあとの、あの清々しさ。 心が空っぽになる感覚。 それと、同じ。 虚勢も羞恥も全てを取り払った、ただ純粋で素直な……透き通った感情。 恐らくこんなにも素直になれるのは、今だけだろう。 自分の性格を知らぬほど未熟ではない。 きっと明日になれば、この感覚は消え去っているに違いない。 一度きり。 ――だからこそ、しっかりと伝えようと思う。 彼女の本意を知った、今だから。 「……悪かった」 「そっ…そんなこと」 ぶんぶんと勢いよくが首を振る。 その様子に――何故だか自然と口許が和らぐのを、感じた。 そっと彼女の目元から掌をどける。 困惑した瞳が此方を見つめていた。 「……どうして蓮が謝る、の?」 「さあな」 そんなに、蓮は穏やかな微笑を浮かべて答える。 何故と言われても――わからないと答えるしかないのだ。 どうして彼女に対して、罪悪感を覚えたのか。明瞭な言葉では、まだ言えないのだ。 むしろ自分は訳もわからず無視された側なのだから、本来ならばもっと怒ってもいいかもしれないのだけれど。 だけど。 嫌な感情ではないことは、わかるのだ。 彼女へ向ける己の思いが。 一向に要領を得ない回答だったが、蓮のその表情に、ひとまず嫌われたわけではないと知って、もやっと微笑んだ。 そしておもむろに―――小さくくしゅんとクシャミをする。 「…この寒い中、そんな薄着で出ているからだ。この阿呆が」 やれやれと言うように、蓮がため息をつく。 「ここなら、見えると思ったから」 「何がだ?」 「………蓮が、かえってくるの」 結局、リゼルグと話すことに夢中で気付けなかったわけだけれど。 指先に息を吐きかけながら、がそう言う。 その言葉に、思わず目を見開いて固まっていた蓮だったが―― はあともうひとつ、ため息をついて。 「…わっ」 の肩にコートを掛けた。 しっかりとした生地で作られたそれは、今まで蓮が着ていたこともあってかかなり温かい。 「れ、蓮…」 「それを着ていろ」 フン、と不機嫌そうに言う蓮だったが―――嗚呼、わかる。 その金瞳に滲む、優しさが。 はそっとコートの襟を合わせた。 じわりと胸が熱くなる。 (…蓮のにおいが、する…) それはとても落ち着く匂い。 優しくて、穏やかで―― ふわりと包まれる。 「何を笑っている」 「…ううん」 照れ臭さを隠すように蓮が睨むが、はただ笑って返した。 ただ、嬉しくて。 ただ、ホッとして。 これからも彼と一緒にいられることに。 そっと蓮の服の裾を、握ってみた。 「………何だ?」 少しだけ驚いたような、彼の声。 しかし、やっぱりはただ無言でふるふると首を横に振る。 そばに、いられるんだ 蓮がふっと小さく息を吐いた。 照れの滲んだ瞳はそのままに。 「……もう戻るぞ」 「うん」 ぐいっとその手を掴まれた。 まるで商店街で迷子になった、あの時みたいに。 それがまた、嬉しくなる。 “そばにいる”――― その証拠に、ほら。 こんなにも近くで、彼の体温を、感じている。 もそっとその手を握り返した。 蓮は何も言わない。 無言のまま、ぷいと顔を背け、そのまま扉へと向かう。 蓮の後ろを歩きながら、は感じた。 もう二度と、彼を傷つけることはしない。 ほんの少しだけ、彼の指に力が篭もったのは たぶん、気のせいではないと思うから。 |